白詰草 2





「父さん、三猿って何だ?」

疑問はさっさと解決してしまうに限る。 一騎は夕方、総士が好みのタイプとしてあげた、その言葉の意味を父に訊いてみた。

「そんなことも知らんのか? ……見ざる、聞かざる、言わざる。その三つのことだ」
「見ざる、聞かざる、言わざる……」

口の中で転がしてみる。
自由を奪われていくような、いやな響きがした。

「それがどうかしたのか?」
「いや……、本を読んでたら、出てきたんだ」

嘘を吐くのは苦手だった。 自分で不自然かなと思ったのだが、史彦はそのまま話を進めていく。

「お前が本か。成長したものだな。……ついでに結婚の話だが」
「食事のときにやめろよな!」
「食事のときにしか顔を合わせないだろう」
「それは父さんが、会うたびに結婚しろってうるさいからだろ!?」

同じ仕事場といっても、その上に立つ史彦と下の一騎では会う機会が少ない。 おまけに史彦が跡取り問題について、いろいろ言い始めた時期から、 一騎が史彦を倦厭し始めたのである。 容貌だけは母親によく似た息子に避けられるのは、つらい史彦だ。 しかもその原因を作ってしまったのが自分であるだけに、ぐっと黙り込んでしまった。

「父さんは何で母さんと結婚したんだよ?  こういうふうに苦労することぐらいわかってただろ?」

甲洋から聞いた話を思い出す。
その苦労も、出世だとか財産だとかで帳消しになってしまうのだろうか。

「……ご馳走様」

一騎は食堂をあとにし、自分の部屋へ閉じこもった。





「総士君か。久しぶりだな。半年会わないうちに、ずいぶんと大きくなったじゃないか」
「ミツヒロ叔父も大過なく、お元気そうですね。 久しぶりの帰国、謹んでお慶び申し上げます」

ミツヒロが帰国して一週間経った頃、彼の帰国祝いが行われた。 遠見という地位、彼自身の能力もあって信奉者は多い。 おかげでにぎやかな宴となっていた。

「ああ、そんなにかしこまらなくていい。 しかしあんなに小さかった総士君が、こんな立派な口上を述べるようになるとはね……。 君が生まれた日のことを、よく覚えているよ。 あれから十五年……、どうりで私も年を取るはずだ」

年を取ったというが、長旅の疲れを感じさせない立ち居振る舞いだった。

「若い頃は兄さんと一緒になって軍で剣の腕を鍛えたものだが、 最近は身体が思うように動かなくてね。困ったものだよ。 兄さんは文武両道で鳴らしたものだが、 ……そういえば、総士君は軍に入ったりはしないのかい?」

現国王である公蔵、ミツヒロは史彦たちと共に、軍で競い合った仲だった。 そのせいで総士は一騎と幼い頃から顔見知りだったのだ。

「僕の腕前なんて、そんな大したものじゃありませんよ」
「君はどちらかといえば、鞘さん似だからな」

母親である鞘は総士の出産の折に、亡くなっていた。 元から身体が丈夫な方ではなかったが、 直接の原因はそれではなく、水差しに盛られた毒が原因だった。 出産の騒ぎにまぎれて、誰かが妊婦の飲む水差しの中身に毒を混入したのだ。
その後公蔵は再婚しようとしなかった。 亡くなった妻を愛していたからだというのも一つの理由であろうが、 もしかしたら鞘の二の舞を、恐れているのかもしれない。

「……視察の方はどうでしたか?」
「イギリスにフランス――、この国は相変わらずだが、外国はすばらしいね。 王の一存ではなく、協議によって最善の道を探るという、その精神がいい。 兄さんも乗り気だ。憲法の草案はたぶん私と日野で取り組むことになるだろう」
「それで最近忙しくしていらっしゃったのですか?  せっかく帰ってきたのに、家にいることが少ないと真矢が嘆いていました」
「今の仕事が片付けば、一段落着く。 そうしたら家族団欒などいくらでもできるのだがね」

ミツヒロはテーブルの上にあったグラスを一つ煽った。





今日の晩餐の招待客の中には、真壁家の面々もあったが、 一騎は早くも来るんじゃなかったと後悔していた。 横で楽しそうにしゃべる女の子は、父の策略だろう。 口下手な一騎としては、こうして初対面の、 しかも喧しい女の子と一緒にされることは苦痛だった。 さっきから自分は相槌しか打ってないんじゃないか、という気分になってくる。
そんな話半分の状態で、会場を眺めていると、 颯爽とした立ち居振る舞いの総士を見つけることができた。 どこにいてもわかるその存在感。 立場上、彼の機嫌をとろうと声をかける人間は引きも切らなかったが、 それを総士は軽くあしらって済ませてしまう。 隣の彼女に捕まったまま、逃げ出せずにいる自分とは大きな違いだった。
総士と目が合う。 彼女は出入り口の方へ顎をしゃくり、もう一度一騎と目を合わせると、 そちらの方へすたすたと歩いていってしまった。 来い、ということだろうか。

「……ごめん、俺用事ができたから」

怪訝そうな顔をする女の子に断りを入れて、会場を抜け出してくる。 帰ったらまた史彦に、うるさく言われるのだろう。 予想はついたが、戻ろうとは思えなかった。
アーチ状に柱が立ち並ぶ廊下には人気がない。 差し込む月明かりと、伸びる柱の影だけが交互に続いていく。 その影に寄り添うようにして、総士は廊下に佇んでいた。

「ずいぶんと可愛い子だったじゃないか。いいのか、置いてきて」
「別に……」

もともと一騎自身は乗り気ではなかったし、 総士に他の女の子のことを指摘されるのはいい気がしない。 おかげでぶっきらぼうな返事しか出てこなかった。 総士はそんな一騎の細かい心情まではわからなかったが、 あの女の子相手に、一騎が疲れを感じていたことは知っていた。 そんな彼の不器用さに、笑みが零れてくる。

「一騎、遠乗りに行かないか」

総士が誘う。

「パーティはいいのか?」
「今日の主役は叔父だ。問題はない」

基本的に正式な場では、総士は白地に禁色である紫、金糸の刺繍が施されたマントを着る。 マントといっても横長の布を両肩のところで吊っているために、 背中が短く腕の辺りが長いという形だ。 一騎は軍属なので、赤に金糸の刺繍となる。 地位や役職ごとに、そうした装いの違いがあった。
鍛錬場の、一騎の私物が仕舞ってある場所に、それらをまとめて脱いで代わりに外套を羽織る。 総士は普段背中に流している長い髪を、邪魔にならないように赤い房付きの組紐で縛った。 厩にいる愛馬に跨り、夕闇の中に駆け出していく。

「……見ざる、聞かざる、言わざる」
「……わかったのか」
「父さんに聞いた」
「辞書くらい自分で引け」

一騎の横着振りに、総士が呆れる。

「何であんなこと言ったんだ?」
「僕が男である以上、結婚相手は女性だろう。 余計な詮索をせず、事実を知っても知らない振りをしてくれる相手がいい。 ただそれだけだ」

一騎にはそうして自由を奪われているのが、結婚相手ではなくて、総士自身のような気がした。 でもこれ以上突っ込んで聞けばまた、王子だから仕方がないと彼女は言うのだろう。

「何で幸せになれないってわかってるのに、結婚するんだろうな。 父さんと母さんも……、訊いたけど答えてくれなかった」
「真壁将軍の話なら知っている。 ……当時将軍職にあった一騎のおじいさんの関係で、 紅音さんはよく鍛錬場に出入りしていたらしい。 腕前もなかなかだそうで、ほらお前のところにも似たようなのがいただろう」
「咲良か?」
「そう、あんな感じだったそうだ」

幼い頃死んだ母はすでにおぼろな面影でしかない。 そのせいでイメージの中の母が、咲良の顔になってしまう。

「それで真壁将軍を見初めて、玉の輿に乗りたくないかと言ったらしい」
「それ……、本当なのか?」
「ああ、僕の父さんもちょうど同時期に軍に所属していたからな。間違いない」

紅音に引っ張られるようにして、総士の母である鞘もよく行動を共にしていたそうだ。 だから母の話のついでのように、公蔵が総士に聞かせてくれた。 総士が一騎の母親のことを「紅音さん」と名前で呼んでしまうのは、 父の呼び方が移ってしまったのだろう。

「結局出世目当てで、父さんは結婚したんだな……」
「何でそういう話になるんだ?  ……普通結婚は、家を通して進められる。 だけどそういうふうに声をかけずにはいられないほど、 紅音さんは真壁将軍と一緒にいたかったし、 上司との兼ね合いや相続問題で苦労するってわかっていても、 真壁将軍は紅音さんの気持ちに答えたかったってことだろう?」

細い月の出ている夜だった。 かけていく、下弦の月。 宝石箱をひっくり返したように、 月よりも小さな星々の輝きの方が、明るく地上を照らしている。

「……お前って、いい奴だよな」
「一騎がすぐ悲観的になりすぎるんだ。 そんなに気になるなら、答えてくれるまで問い詰めればいいだろう」
「そうだな。ちゃんと話さないと、わからないこともあるもんな……」

そうして何時間馬を走らせたのか。

「本当に狭い国だな。もう国境だ」

そうしてなだらかな丘の上から下へと続く、花畑を見ていた。
昼に来たことはほとんどない。 総士をお忍びで連れ出せるのは、夜しかなかったから、 二人で明るい花畑を見たことなど、小さい頃以外なかった。 腰を下ろすと、葉にたまった夜露に濡れる。

「……軍に入らないのかと、叔父に訊かれた」
「総士が?」
「ああ」
「入るのか?」
「まさか。……暗殺されるだけだ」

総士は母親の腹の中にいる頃から、暗殺騒ぎが絶えなかった。 生まれた子は女の子だったものの、女には王位継承権がない。 そうすればまた世継ぎになれるような男の子の誕生を待たねばならず、 同じような騒ぎが繰り返されることが目に見えていた。 だからこそ、公蔵は総士を男として育てたのだ。

「下級貴族や平民は金や地位で動かせるからな。 ……遠見は特別な地位だ。 王位継承権を放棄したといっても、 実際僕が死ねば、父は他に子供がいないから、復権せざるをえない」

たぶん母を殺したのは十中八九、叔父だろう。 総士が死ねば、公蔵は嫌でも跡継ぎのために、誰かの娘を娶らなければならなくなる。 そのために、総士を狙う者もいたが、 総士が大きくなるに連れて、そうした理由の暗殺は減っていった。 恐らく総士が適齢期に近づいたことで、 公蔵に嫁がせるよりも、王子である総士との婚姻を狙う者が増えてきたせいである。 現在もしつこく刺客を差し向けてくる相手には、叔父以外心当たりがなかった。

「俺が守る、そんなことさせるもんか」

叔父はこの狭い国を好いてはいなかったが、 それだけではなく、暗殺の主犯として疑われることを避けるために、 わざと国を空けているのではないかとも思えた。 はっきりとした確証があるわけではないけれど、疑い出せば切りがない。 総士は地面を覆う草に手を伸ばした。

「クローバーを知っているか?」
「それくらいは知ってる! バカにするなよ」
「ほとんどは三つ葉だが、四葉のクローバーを見つけたものは幸運になれるらしいぞ」

ときに五つ葉や六つ葉もあるらしいが、 それらに価値はなく四葉のみが吉兆とされている。

「ほしいのか?」

夜とはいえ、星が明るいから探せないことはないだろう。
総士がほしいというのなら、見つけてプレゼントしてやりたかった。

「一騎、お前手先は器用だろう? この花で冠とか指輪とか作れないか?」
「できるけど……、城に帰れば総士はほしいもの、何でも手に入るだろ?  もっと立派なのはいくらでもあるのに……」
「花は枯れやすからな。それがいいんだ」

形の残るものならいらない。 そういうものがあると、縋ってしまいそうで怖かった。 だから今日という日の、一瞬の記念でいい。

「……指、出して」

五本の指を総士がぱっと開く。 花のすぐ下にある、茎の部分に爪で穴を開けて、一騎は輪っかになるように先を通した。 期待したのとは違う指。 中指を挟んで反対側の、人差し指にそれは納まった。

「……ありがとう」
「総士!」
「一騎! 何を……」

そのまま左手を掴んで引かれる。
クローバーの野原の中を、もつれるようにして歩いた。

「総士はあそこからいつも見てるだけだけど、 国境なんて簡単に越えられるんだからな!」

小さかった頃、昼間親に連れられてきた花畑。
国境といったって、線が引いてあるわけではないし、 こんな何もないところに見張りなんて立てない。 どこが境目なのか、二人で話し合って、丘から見下ろした花畑の切れ目にしたのだった。 総士は王子である以上、この国からは出られない。 だからいつも丘の上から、その切れ目を見下ろしていた。
そこを一騎はいとも簡単に越えていく。 つないだ手が温かい。 けれど一緒に、逃げようとは言ってくれなかった。

「……帰ろうか」

総士は中空に懸かる月を見上げながら、呟いた。





白々と、夜が明け始める。
まだみんな寝静まっているはずの時間だ。 しかし城の近辺まで来ると、どことなく浮き足立ったような緊張感が伝わってくる。

「何だ?」

城門に近づくと、兵士が出てきて取り囲まれた。 夜勤なら、こんな人数はいないはずだ。

「王子か?」

輪の中から、一人男が出てきて問う。

「……王子かと訊いている」
「……そうだ」
「総士!」

明らかに総士を害そうという意志のある者。
彼らを総士に近づけさせる訳にはいかなかったが、多勢に無勢では守りきれない。

「一緒に来てもらおうか」
「父はどうした?」
「すでにお亡くなりになった」

いつかそうなる予感は、前々からあった。

「そうか……、わかった。言う通りにしよう」
「総士、行くな」

一騎が総士の袖の端を握った。

「一騎、今日は楽しかった。ありがとう」
「丁重にお連れしろ」

そして男が総士の肩に手をかけて、連れて行ってしまう。

「そう、し……。離せっ」

呆然としているうちに、一騎も周りを取り囲んでいた兵士たちに拘束される。
兵士たちの身体が邪魔で、総士が見えなくなる。

「行くな総士……、総士ぃぃ!!」

朝靄に声がこだまする。
これが王が崩御した翌日――。 新しい時代、新しい朝の始まりだった。





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一騎が総士の名前を叫ぶのは基本です(笑)
たぶん一騎はこの日、総士を連れて国境を越えなかったことを、 ずっと後悔し続けるのでしょう。
ちょっと気の毒ですが、私の書くものなんて、所詮こんなもんです。
総士が「連れて逃げてほしい」といえば、一騎はその願いを叶えた。
総士は総士で立場があるから自分からは言えないけど、
一騎が「好きだ、一緒に逃げよう」というのなら、それでも構わなかった。
結局お互いに期待しすぎて、自分からは動けずにダメになった、みたいな……。
本当にどうしようもない二人です。