白詰草 1
総士は従姉姫に尋ねた。
「ミツヒロ叔父が帰ってきたんだって?」
「うん、しばらくはどこにも行かないみたい」
他国との外交、技術導入といったことを率先して仕切っている叔父は、 自国に留まっていることの方が少ない。 前回はイギリスに数ヶ月滞在していたが、その視察を終えたあと、 報告書だけ寄越して、本人は早々に次の国へ渡ってしまったのだ。 家族にしても、実に半年振りくらいの再会だった。
「そうか。 ……ミツヒロ叔父は狭いこの国に留まるよりも、外国を巡っている方が性に合うんだろう。 外交上は助かっているが、当主が留守がちだと、遠見たちは落ち着かないな」
海もない、交通の要所というわけでもない、この狭い国を叔父は嫌っていた。
常に他国の文化や技術を褒めてばかりいるような男だったが、
総士は従姉である真矢の手前、婉曲的な言い方をした。
「皆城君のお父さんも忙しいでしょ。ちゃんと話できてる?」
「……昼間は執務室に缶詰だが、朝と夜、食事のときにはちゃんと顔を合わせているさ」
父は国王、総士はその息子だった。 父は執政や貴族同士の会合に忙しいし、総士は総士でそのあとを継ぐための勉強がある。 顔は合わせていても、そう話すようなこともなかった。
「あ、誤魔化した。 ……うちのお父さんね、せっかく帰ってきたのに、ご飯のときにもいないの。 大事な話があるんだって、しょっちゅう他の貴族の人と話し込んでる」
しばらくはどこにも行かないと、言ったときとは裏腹な暗い顔で告げる。 ミツヒロの不在が真矢にどれだけ影を落としているかわかるようだった。 ミツヒロは総士が生まれたときに、 王位継承権を放棄させられ、遠見という籍を授かった王弟であった。 そのため、総士と真矢は従姉弟同士に当たる。 遠見というのは王と臣下の中間にある、特殊な存在だ。 度々国を空ける訳にも行かない王の代理として、遠見が他国を訪問し、和睦を保つ。 王の弟という肩書きがあるから、相手を軽んじているといったような角は立ちにくい。 そういった理由で、外交を任され、ミツヒロはほとんどこの国にいることはなかった。
「ミツヒロ叔父は今回フランスに行ってきたらしい」
「フランス?」
真矢が顔を上げる。
「フランスは現在、共和制だ。今どき王制で国は動かないからな。
いずれ議会政治を行うための、視察に行ってきてもらったんだ」
「それだと皆城君たちが困るんじゃないの?」
王制があるから、総士は王子でいられるのだ。 それがなくなれば、彼の地位を保証するものはなくなってしまう。
「まだフランスのような形は早いが、 イギリスのような立憲君主制に移行できたらと、父さんは思っている」
時代はいつも留まることを知らない。
「ふーん、そっか。うちのお父さんもちゃんと仕事してたんだ……」
「自分の父親だろう。そのくらい知っておけ」
「……教えてくれてありがとう」
自分たちをほったらかしても、しなければならない仕事というのが何なのか、 真矢にはわからなかった。 総士に説明されても、ようやく半分といったところだが、 それでも父のしていることが、人の役に立っているという事実が誇らしかった。
「昼間は家庭教師が来るんであれだが、夕方からなら時間が空いている。
叔父が外国から持ち帰った品があるから見に来るか?
確か女物の布地もあったようだから、気に入ったなら持って帰ってもいいぞ」
「いいの?」
「姉君は裁縫が得意だっただろう。うちには男しかいないし、遠見は別格だ。
持っていっても別に構わないさ」
普通王家に当てられた贈り物を、他所にやることなどできないが、 遠見の特別な地位を思えば、それも平気だろう。 総士は真矢と夕方会う約束を交わした。
親子二代して軍属である、真壁家の朝は早い。
それに合わせた使用人の生活はさらに早く、テーブルの上には立派な朝食が並んでいた。
訓練を始めたばかりの頃は、訓練の前後に食事など取れなかったし、
取っても吐くことが多かった。
しかし今ではすっかり慣れてしまったのか、余裕で腹に収めることができた。
そうして腹の中身が落ち着くのを待つ合間、無口な父が珍しく口を開いた。
「一騎……、お前好きな相手はいるか」
「な……、何だよ、いきなり」
ゆっくりすすっていたお茶を噴きそうになる。 一騎は口の端を拭った。
「いや、いない方が都合がいいのか」
「人に話を振る前に、どっちかはっきりしてくれよな……」
「お前もそろそろ十五だ。
真壁家の跡継ぎたる者、いい加減見合いでもして、身を固めねばならん」
「まだ早過ぎるだろう……」
安全策として、ティーカップをテーブルの上に置いた。
「軍なんて、いつ何時何が起こるかわからんからな。 俺の代で家を潰すことになったら、今は亡きお義父上に申し訳が立たんだろう」
一騎の父、史彦がまだ若かった頃、 将軍職にあった祖父が下級貴族出身の彼を気に入って、婿養子に迎えたのだとか。 しかし祖父も母もすでに鬼籍の人である。 真壁の親戚連中は史彦が当主の座に就くことに、こぞって反対したらしいが、 今は成人した一騎が当主を継ぐまでの代理ということで、話がついている。 そのため一騎の結婚は絶対だったが、まだ心の準備などできていない。
「とにかく、俺はまだ結婚する気なんてないからな!」
そう叫んで、一騎は家を出てきた。
朝の訓練が終わったあと、ぐったり座り込む一騎を、 甲洋は奇異なものを見るかのように眺めていた。
「どうしたんだよ、朝から疲れた顔して」
「父さんが見合いしろだの、結婚しろだのうるさいんだよ」
体力的にというよりも、精神的に疲れてしまった。 今日一日こんなことでやっていけるのだろうか。
「ああ、そんなのうちもよ。 今だったらまだ、間違いで求婚してくる相手もいるだろうから、 そうなったら逃すんじゃないよって」
軍の紅一点、要咲良がさばさばと言う。 彼女は女だったが、軍で剣術指南役をしている要誠一郎の愛娘だった。 小さい頃から鍛錬してきたその腕は確かで、 若手の中では一騎の次、甲洋と張るくらいに強い。
「間違いって……」
「悪いのはあたしじゃなくて、
守ってあげたいひ弱なタイプにしか求婚できない、男だっていうのにさ」
「俺たちもいい加減お年頃だからね。その手の話が出てくるのは仕方がないって。
そういう俺も羽佐間家との縁談が進んでるから、
一年以内には結婚することになるんじゃないかなぁ」
人生における一つの節目だというのに、 甲洋の様子は今日の天気を告げるときと変わらない。
「びっくりした?」
いたずらっ子のような瞳で、一騎たちを見返す。
「今まで一度もそんなこと、言わなかっただろ……」
「何で隠してたのさ!」
人の恋愛ごとは楽しい話の種である。 それを黙っていた甲洋を、咲良は責めた。
「好んで吹聴して回りたい話でもないしね。
……春日井家は家格が低いけど、羽佐間は中堅どころだろ?
俺は出世できてラッキーだけど、翔子はちょっとかわいそうだよね。
メリットがないし、世間体も悪い」
「甲洋、お前――」
自虐的な内容に、そこまで言う必要もないのにと一騎は思った。
「現実問題はそうだよ。……幻滅した?」
「わからないでもない」
一騎だっていつかは結婚しなければならない。
「でも、納得してないって顔だよね。一騎にはいないの、好きな人」
「……いる。身分違いだけど」
「上級貴族の真壁で身分違いってことは、相手は下級貴族か、平民?
一騎のところは跡取り問題が複雑だし、だったら正妻には出来ないよな。
よくて愛妾、正式に認められることは絶対にない。それが現実ってやつだよ」
親戚の中には、史彦を真壁の血筋を汚したといって罵る者もいる。 一騎の結婚に求められているのは、家格の釣り合いと、血筋の回復だった。
「暗い話だね。それじゃあ結局貴族って人種は、 結婚なんかじゃ幸せになれないってことだろう」
咲良が憤慨する。
「うちの父さんと母さんも、それぞれ愛人がいるしね。 二人して一緒にいることの方が珍しいよ」
甲洋はそういう家庭の中で育ってきた。 父も母も自分の情事で手一杯で、ろくに構ってもらった覚えなどない。
「……それでも、俺は翔子のこと好きだ。幸せにしてやりたいって思ってる」
「甲洋にならできるさ!」
「いや、翔子はむしろ――」
励まされると、かえって後ろめたいのはなぜだろう。
お見合いが決まる前から、甲洋はずっと翔子のことが好きだった。
だから翔子の目が、本当は誰を追っていたのかも知っていた。
彼女は一騎に告白するつもりはない。
全てを知った上で、彼女を娶りたいと思うのはずるいのだろうか。
彼女の気持ちを知ったからといって、一騎がそれに応える可能性は少ないと思うけれど、
自分が黙っていることで、その可能性を潰しているような気がしてしまう。
「ごめん、何でもないよ」
甲洋はそう応えた。
「かーずーきくん。今暇?」
「暇だけど……」
事務処理を終えて、鍛錬場へ戻る帰り道、真矢が窓の上から手を振っていた。
「皆城君のところに、布地を見せてもらいに行くの。一騎君も一緒に行く?」
「行く」
短い言葉で、けれど肯定の意思を伝えた。
「何だ、一騎も一緒だったのか」
「うん、連れてきちゃった」
王宮の居住区にある、総士の部屋を訪ねる。 総士の乳母の娘であり、総士付きの侍女でもある果林に上着を渡すと、 コートハンガーに掛けておいてくれた。
「そこに腰掛けていてくれ。果林にお茶でも入れさせよう。 ミツヒロ叔父のおかげでいい茶葉が手に入ったからな」
季節は春、窓を開け放しておくと、いい風が入ってくる。
かすかに花の香りがした。
部屋の中の花瓶には、庭にあるのと同じ大輪のバラが生けられていた。
一度咲いてしまえば、散ることしかできない花。
「いい香り」
真矢がそのバラに顔を寄せた。
「それにしても一騎、中尉がここにいても平気なほど、軍は暇なのか?」
「今は非常時じゃないし、訓練なら昼間にちゃんとしてる」
「そんなことじゃ、騎士団は程遠いな」
「総士!」
騎士団は、軍でその腕を認められた者だけが入ることを許される、王の近衛だった。 総士はいずれ王になる。 そのときに、仕えてみせると昔約束したのだ。
「一騎君くらいの実力があれば平気だよ。だって若手の中で一番強いんでしょ?
上の人にだって、溝口さん以外には百戦連勝だって聞いたよ?」
「遠見、あまり褒めすぎるな。一騎は単純だから慢心するぞ」
どこで聞いても一騎の評判などそんなものだったが、総士だけは厳しい。
「俺だって、そんな簡単になれるなんて思ってないさ。
……帰ったら腕立て百回する。それでいいだろ!?」
「二百回」
「……わかった」
一騎の負けだ。
そんな二人のやり取りに、真矢が噴出す。
そしておいしいお茶をいただいたあと、いよいよ本題に入った。
「それで肝心の布地だが、これだ」
総士が包みを解いて広げてみせる。
「……真っ白」
「染色してもいいが、惜しいだろう。遠見の結婚衣装にどうだ?」
「え、そんなのまだ早いよ」
「もう十五だろう。そんなことを言ってると行き遅れるぞ」
「私はお姉ちゃんとは違うんだから!」
真矢の姉である弓子は、かなり早い時期から、 幼なじみである道生との縁談が出ていたのだが、喧嘩をしてよりを戻してを繰り返し、 結婚にまでは至っていない。 それはミツヒロの不在と並ぶ、遠見家の悩みの種だった。 総士が布を持ち上げ、真矢にあてがう。 艶のある上質なシルクの、柔らかい手触りが心地よかった。
「ほら、このレースと合わせれば綺麗じゃないか?」
「……うん。ねぇ、一騎君。どう、似合う?」
真矢が振り向いた。
「……あ、ああ。いいんじゃ、ないか」
「もしかして似合ってない?」
一騎の歯切れの悪さに、真矢が不安そうな顔をする。
結婚衣装の白が似合わないとなると、女としてかなりつらいものがある。
「気にするな。照れているだけだ。……よければ家まで届けさせるが?」
「ありがとう。それじゃあ、お願いするね」
もう十五、来年再来年には、 自分がもう結婚しているなんて、真矢には信じられなかった。
「……遠見。俺、総士に話があるから先に帰っていてくれないか」
廊下を途中まで進んだとき、一騎は真矢にそう切り出した。
「それはいいけど……」
「じゃあ、またな」
真矢のがっかりしたような顔には気がつかず、一騎は走り出す。
ドアが開く気配に総士が振り返ると、そこには一騎がいた。
果林は使った茶器を片付けに、調理場まで行っていて、ここにはいない。
「一騎か? 遠見と一緒に帰ったんじゃなかったのか?」
仕舞ったばかりの布を、一騎が広げる。 それを総士に押し付けた。
「何をする!?」
「総士の方がずっとよく似合う。……総士は結婚しないのか?」
総士が真矢に布を当てたとき、真矢の隣にいた一騎には、
それは総士が着ているように見えた。
王家に女がいないから、あげるだなんてふざけている。
総士はここにいるのに。
ソファーに腰掛ける総士、一騎が真正面に乗り出しているため、
上体を反らすような姿勢を強いられている。
部屋着でそんな体勢をとると、胸のかすかな膨らみがわかった。
「馬鹿なことを言うな。殺すぞ」
「父さんが最近結婚しろって、うるさいんだ」
「当然だろうな」
切って捨てられる。 けれどそんな総士の態度には、一騎も慣れっこだった。
「総士だって、ずっとこのままって訳には行かないだろ? ……総士の好みのタイプって、どんななんだ?」
総士はしばし思案して、答えた。
「……猿みたいな人がいい」
「猿?」
つまりそれは、元気なタイプということだろうか。
「三猿を知らないか?」
「いや」
「一騎は体力馬鹿だからな。期待した僕が間違いだった。
……いい加減離れろ。仮にも僕は王子だ。不敬罪で訴えてやるぞ」
「総士……」
自分の前で、王子の振りなんてしなくていいのに。
美しい結婚衣装、それを着て自分の隣に立ってくれたらなんて、
身分違いの恋を通り越して、妄想でしかないけれど。
「おまえは馬鹿だから、帰って剣の腕でも磨いていればいい。 体力馬鹿のとりえなんて、それぐらいしかないだろう?」
父親同士が仲が良かったせいで、小さい頃からよく顔を合わせていた。
いつかあの方に仕えることになるんだから、と言われていたせいで、
自分にとって彼はずっと庇護の対象だった。
だけど、ある日総士が女の子だと知った日からは、
身分が高い仕える相手だという以上に、大事にして守らなければという気持ちが芽生えた。
だから一騎は騎士団を目指す。
総士の隣にいるために。
とりあえず、100題で出番が少ない一騎のために、救済措置発令。
総士に冷たくあしらわれてるのはいつものことですが、まぁこれくらいは許容範囲内でしょう。
むしろ一騎のことを何の葛藤もなく受け入れたら、それは皆城じゃないよ!
実はこの話、それほど設定ができてなくて、アンケでこっちの方が多かったものの、
どうしようかなというのが正直なところでした。
書くうちに大分様になりましたが、共和制とか、軍とか、何も突っ込まないで下さい……。
実は小楯さんが王宮庭師、剣司と衛はその下で働いてるという設定があるんですが、
使うことは多分ないでしょう。