溺れる魚
海に囲まれた島で、山の頂から見る黎明はとても綺麗だ。
空と海とが境を接する水平線は、緩い曲線を描く。
地球が丸いことなんて、この島に育っていたら自然にわかることだった。
一人で上ると危険だからと名づけられた「ひとり山」に、
幼なじみが総士を引っ張って行ってくれたことがある。
新年早々まだ暗いうちに、親に黙って二人で抜け出した。
つながれた手、朝靄が揺らいでいた。
一日の始まりと共に、口にする言葉がある。
「おはよう」
「……おはよう」
教壇脇の引き戸から、すぐ目に付く位置に総士の座席はある。 右から二列目の一番前。 黒板に近いのはいいが、近すぎてかえって端の方が見づらい。 教師が授業を始めれば、その体躯が邪魔になって、 中央の文字も読み取りづらいという、なんとも不便な位置だ。 ついでに戸をくぐってきた相手と真っ先に目が合う、嫌な位置でもある。
「あっれー、果林。もう調子いいんだ?」
窓際の席から、遠見真矢が手を振った。 総士の前を通り過ぎていった果林が、 昨日までの憂鬱さを全く感じさせない調子で、それに応じた。
「うん、平気平気。季節の変わり目なんかに風邪を引くもんじゃないわねぇ……。 治りが遅いんだもの。 学校結構休んじゃったし……、文化祭の準備ってどれくらい進んでる?」
彼女の劇での配役は、シンデレラに魔法をかける魔法使いだ。
学校が始まって以来休んでいた彼女は、練習に参加していない。
「劇は夏休みに暗譜してきたところの、台詞合わせに入ったよ」
一学年一クラスの竜宮中学校が文化祭をして、それなりに盛り上げようと思えば、 出し物の数が明らかに足りない。 当日は商店街などから出店がやってくるが、ステージ発表だけでなく、 クラスを二つに分けて展示班も作る。 何かしら部活に所属している者は、そっちの方でも作業に参加しなければならない。 文化祭の次の日は、体育祭もあるのだ。 九月に入ってからの学校は、お祭り騒ぎを通り越して、てんてこ舞いといった方がよかった。 掛け持ちは当たり前で、生徒会の仕事があるからといって、分担を減らしてもらえるわけでもない。 夕食間近の帰宅、家での内職、授業中の居眠り――、本番が終わるまでそれらが続く。
昨日は学校での作業が終わったあと、果林のところに寄り、 帰ってからは同じく帰宅が遅かった父親のために、夕食を作った。 あんなことがあったせいか、ろくに睡眠もとれず、 朝から疲れ果てて、お花畑が見えそうな状態だ。 目蓋が落ちる。
靄の中を深みへ深みへと、進んでいく。
「危ないから、一人で行っちゃダメよ」
女の人――、母親だろうか。 どうしてそんなことを言うのかがわからない。 物心つく前に亡くなってしまったから、写真で見ただけで、 声の調子なんて覚えていないのだけど。 指先がかじかんで、感覚が湧かない。 そんな自分の手を、誰かが引いていく。 それは酷く温かだった。
「……総士、大丈夫? 総士がそんなにうとうとしてるところって、初めて見たよ」
いつのまに昼休みになったのかは定かではないが、自分はすでに昼食を片付け、 教室の喧騒を子守唄に意識を飛ばしていたらしい。 甲洋が持ち主不在の席を陣取り、総士の顔を覗き込んでいた。
「……ああ」
「おーい、ちゃんと起きてるか?」
瞬き一つで返す。 酷く咽が渇いて、声を出すのが億劫だった。 何か夢を見ていた気もするのだけれど、霞がかかったように思い出せない。
「……しょうがないなぁ」
自分が何でこんなに眠いのか、それすらも曖昧だ。 そんな総士に、甲洋もまともな反応を期待するのは諦めたようだった。 それでも総士の側から離れるというわけではなく、横に座ったまま違う方向を見ていた。 教室の喧騒が、二人の沈黙の間に落ちる。
「剣司、あんたって奴は、人がせっかく鍛えてやろうっていうのに、
逃げ出すなんていい度胸してるじゃない」
「姉御、勘弁してくれよぉ……」
「武道場まで付き合ってくれるわよね?」
耳元で囁かれた剣司が震え上がった。 最近放課後が埋まっているせいか昼休み、ストレス発散とばかりに、 咲良が剣司を体育館横にある、武道場まで引っ張っていく。
「二人とも待ってってば!」
衛が咲良と剣司を追いかけた。 咲良は可愛いとは言い難いが、見た目は整っているし、 あれはあれで結構女の子らしいところもある。 女友達よりも男友達の方が多く、 自宅である道場に通ってくる奴らには、差し入れも出してくれたりするので人気は高い。 麻疹と同じで、島っ子なら誰もが通る道である。 それでも恋にまで至らないのは、 その男勝りな性格と、腕っ節の強さのせいだろう。
「女子って怖いな……」
「そう? ふわっとしてて、可愛くて、守ってあげたくなると思うけど?」
咲良のあの剣幕を見て、尚且つそう言えるのなら、彼はなかなかの大物だ。
けれど、総士の心は半分別のところにあった。
「僕にはよくわからない……。
人の弱さを支えられるほど、強くはないからな。
守るだなんて、重たいだけじゃないか?」
「ああ……、総士は相手だけじゃなくて、自分自身にも厳しいから、
完全な状態じゃないと他人を受け入れないところがあるよね。
でも人を支えることで、初めて強くなれることはあると思うよ。
一人で何でも背負い込もうとするのは総士の悪い癖だ」
夢現の総士の言葉を、甲洋は器用に汲み取っていく。
「俺にも何か、手伝えることはある?」
"Can I help you."は一つの決まり文句だ。 総士はしばし考えた。
「……生徒会の仕事、蔵前が休んでたから全然進んでないんだ」
「じゃあ放課後、俺が手伝うから。総士はあまり無理しないようにしなよ」
自分だって、王子様役の練習があるだろうに、 人のものまで何でもかんでも背負い込むのは、そっちじゃないか。 そういえば夢の中でも、自分は誰かに手を引かれていた気がする。 朝靄の中で迷子にならないようにと、 つながれたそれが、凍えた指に温かい体温を伝えてくれた。
「……ありがとう、甲洋」
「どういたしまして」
彼はそう言って微笑んでみせた。
何でも器用そうにこなす総士にも、できることとできないことがあります。
授業中にうとうとするなんて、平時じゃ絶対にありえないから。
うとうと見るのは一騎の夢です。
こういう夢と現実が入り混じった感じの話を書くのは好き。
あとこれを書いていて思ったのが、
甲洋にとって翔子は自分が手を貸してあげなきゃいけない人で、
総士にとっては自分が支えなくてもいい人、だったんだなぁと。
総士は人にも自分にも自立を求めますが、
それだけじゃなくて人の弱さに巻き込まれて立ち上がれなくなるタイプじゃないかなと。
だから弱い人間は、何にしろ嫌いなんだと思います。