体温
なぜ自分がこんなことをしなければならないのだろう。
学級委員という名目で、同じ子供だからという理由で、
周囲は何かと総士に果林を押し付けたがる。それに息が詰まりそうだった。
ふとした拍子に止まりそうになる足を叱咤し、 緩やかに傾斜した坂道を登っていく。 左目の視力が悪いため、右目がカバーしてくれる正面はともかく、 端はぼやけて見えづらい。 そのせいか左の方が、視野が狭く感じるのだ。 普段気にもならないようなことが、気になる。 神経が過敏になっているせいで、舗装されていない道の、砂利の感触がやけに靴底に響いた。 連日の作業で疲れているのだろう。 今すぐ帰って、眠ってしまいたい。 とっくに通り過ぎた自宅を、振り返らないように足を進めた。
「いい加減出てきたらどうだ?」
開かない扉の前に立って呼びかける。 何度目か知れない問答に、総士はいい加減うんざりとしていた。
「こんなことが、いつまでも続けられるわけないだろう。
蔵前には蔵前の役目がある。
この島にいる限り、目の逸らしようがない事実だ。
それとも君が言うように、他の子供たちに秘密をばらして、自分の代わりにあれに乗せるか?
君はそれで満足なんだろう?」
「馬鹿にしないで! 私、そんなこと思ってない」
勢いよく扉が開く。 自分を睨みつける彼女を、総士は冷ややかな目で見下ろした。 役目を果たせなかった自分は、もう必要とされていない。 CDCの配属になったとき、悔しかった反面、 これで彼女と比べられることはなくなると、安心してもいたのだ。 なのに必要とされない自分は、 必要とされながらもそれを拒む彼女を、説得しなければならないなんて、 ただ惨めなだけじゃないか。
「……ただ怖いのよ、なんだか自分が自分でなくなってしまいそうで……。
皆城君はあれに乗ったとき、何も感じなかった?
あんなの、人の乗るものじゃないわ……」
「ファフナーは乗るんじゃない。
一体化し、ファフナーそのものになるんだ。
そういう意味でなら、君の言っていることは正しいだろうな」
ファフナーに乗るために憶えた知識だ。
CDCに移ってからも、惰性のように資料にだけは目を通し続けている。
彼女は期待に応えることができ、自分にはそれができなかったということを、
彼女の前に出ると、嫌でも意識させられてしまう。
これ以上余計なことを言うまいと、主観を抜きにただ事実だけを述べた。
「……そう。ねぇ、皆城君。 私たちがファフナーに初めて乗ったのって、夏休みに入ってからだったよね……。 まだ二ヶ月も経ってない。 なのにもう、ファフナーなしの生活が考えられないの。 前の自分が思い出せなくて、 学校に通うこととか、友達と笑い合うこととかに、すごく違和感を感じてる」
果林は自分の母が、血の繋がった存在ではないことに、早くから気付いていた。 母というよりは、祖母といった方がいいほど年が離れていたためだろう。 だから、小さなことで手を煩わせたくはなかったし、 心配させないために誰とでも仲良くし、物事のをいいところだけ誇張して話す癖があった。 それを世間一般では優しさというが、周囲の人間との不和を彼女は望まない。
「皆城君はまだそっち側にいるのね。全然変わらない……」
「僕だって変わった」
「嘘つき。私、いつも苛々してるの。
……変性意識って、ファフナーに乗ってるときだけなんでしょう?
別の自分がどんどん増えていって、もとの自分がわからなくなる……。
今こうして皆城君と話してる自分が本物かどうかさえ、わからないのよ……」
彼女はもともとカメレオンのように、親や友達に合わせてその色を変えていた。
それが島の秘密を知り、ファフナーに乗ることで、
誤魔化さなければならないものが増え、混乱している。
過剰なまでの同調と自己消失。
嘘ばかりつき過ぎて、何が本当で、何がそうでないかなんて、
彼女にももうわからなくなってしまったのだろう。
総士と果林はまるで正反対だった。
総士は小さい頃にみんなの輪から引き離され、また左目に傷を負ったことで、
他の誰とも自分は違う存在なのだという意識が強かった。
だからみんなと同じであること――無に対する憧れがある。
そんな自分は原理がわかっても、決して彼女に共感なんてできない。
果林が背にした部屋の中から、廊下に明かりが差し込む。 光と闇のその狭間で、総士は暗闇の中で光を、果林は光の中で闇を見据えていた。 彼女の顔は逆光に隠れてよく見えないが、肩が震えて泣いていることがわかった。 仕方なく、泣き出す彼女の涙を拭ってやる。
「……中途半端に優しくなんてしないで」
そんなのはただの自意識過剰に過ぎない。 自分が彼女に優しくできたことなんて、今まであっただろうか。 逆に彼女のことを、傷つけてやりたいのかもしれなかった。
「じゃあ、本当はどうしてほしいんだ? 君はいつも人に求めるばかりで、 そのくせ相手にどうしてほしいのかは、はっきりと言わない。 ……僕だって時間が惜しい。言いたいことは、はっきり言え。 これが最後のチャンスだ」
彼女に選択を突きつけ、心の中で五秒数える。 ため息をついて、身を翻した総士の手を、果林が掴んで引止めた。
「……側にいて。一人にしないで。抱き締めていてほしいの。 私がここにいることを、皆城君が証明してみせて」
果林は掴んだ総士の手を、自分の胸にあてがった。 戦時下での擬似恋愛なんて、ありすぎて笑えない。 精神を肉体に転化する、安っぽい解決手段。 結局いくら進化しても、人間は動物に過ぎないということなのだろうか。
「……後悔はしないんだろうな?」
眉を寄せたままで、総士はただ一言確認を取った。
電気を消した部屋で、果林はベッドにうつ伏せになり、床の隅を見つめていた。 総士はカーテンの開いた窓の外を凝視している。 身体がどんどん冷えていく。 離れていく体温。 いくら抱き合ったところで、二人が違う人間だということを思い知らされた気分だった。
「エッチって、もっと特別な、人生が変わるものだと思ってた」
「そんなわけないだろう」
どれだけ夢見がちなんだと、呆れる。
こんなことをしたって、現実は何も変わらない。
状況に適応しすぎた果林は、消えてゆく自己に怯えて誰よりもそれに執着し、
初めから皆と隔離されて育った総士は、それゆえに全体との合一を求めた。
身体の距離がいくら近くなったって、
抱えるものが違いすぎて、分かり合えるはずなどなかったのだ。
やってみないとそれに気付かない自分たちは馬鹿じゃなかろうかと、今更ながらに思う。
それともわかり合えないと気付くことに、意味があったのだろうか。
「……明日からはサボらず学校に出てこい」
「うん……」
彼女は言葉少なに、小さく呟いた。
「現実って、そう簡単に変わったりしないんだね」
そのくせ人に言えないことばかりが増えていく。 総士は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
年齢制限を入れるのが面倒だったので、肝心の場面はスルーしました。
のちに書くと思いますが、まだ日常側にいられる総士に、
果林は自分を引っ張り上げてほしかった。
そして引っ張り上げられないのなら、自分のところまで堕ちてきてほしかった。
それが彼女の行為に及んだ動機です。
果林を疎んじる気持ちを持ちながらも、完全に彼女を跳ね除けられない総士は、
基本的に優しいというか不器用な人間なんですよね。
蔵前が捏造甚だしいのはご勘弁を……。
皆さん、ここに書いてある設定は何一つ信じちゃダメですから!(笑)
これだけは声を大にして言いたいです。