新月





放課後ただ黙々と、衛と二人、段ボールの上で作業をしていく。
本来ならもう少し人数がいるはずなのだが、 体育祭の応援団と掛け持ちしている人もいて、今日はそっちに人手を取られてしまっている。 面積が広いので、美術の授業で使うパレットなど役には立たない。 食品トレーの上にチューブを何本も絞って、混色していった。 一度に大量に作って塗ってしまわないと、同じ色はもう出せなくなってしまう。 外で作業をしているため風の通りがよく、 太陽も照り付けてくるため、絵の具の乾きは早かった。 刷毛に取って、手早く塗り進めて行く。

「それが舞踏会の背景になるんだ?」

肩越しに聞こえた声に振り向くと、体育館で練習していたはずの遠見真矢が、 身をかがめて一騎の手元に見入っていた。

「遠見……、練習、もういいのか?」
「春日井君が五時半からの参加だから、それまでちょっと休憩だって」

王子様役の春日井甲洋は後半にしか出番がない。 対して魔法使いの出番は前半だ。 時間を有効に使おうということで、どうやら半々に区切って練習しているらしかった。 一騎は演劇班に入れられてしまったものの、 口下手だということで役者には抜擢されずに済み、 衛たちと一緒に衣装や大道具、小道具の製作に携わっている。 移動の手間を減らすため、作業場は体育館の軒下だった。

「そっか」

真矢が一騎の横に座り込む。
期間中、運動部の活動はない。 もともと男子は野球、女子はバレーくらいしかない学校なのだ。 準備期間中は人数が揃わないので、学校側も行事優先と割り切っている。 そのため体育館は空いていて、各学年のステージ班が練習に使っていた。

「明日は私も応援の方に出なきゃいけないし。この時期って本当にあっという間だよね」
「気がついたら、もう十月に入ってるんだよな」

彼女の話に相槌を打ちながら、手は休めずに動かしていく。

「そう。それで中間が目前で慌てて勉強を始めるの。 でも授業とか寝ながら聞いてたりするから、ノートを見直しても全然わからなかったりね」

何せ一学年一クラス二十人あまりを、 舞台発表、展示、応援合戦に分けるというのが、そもそも無理な話なのだ。 皆複数掛け持ちで、同時進行。 文化部はその間、また別に準備が進んでいる。

そんなこんなで文化祭当日を迎え、体育祭にもつれ込む。
連日の作業の疲れでハイになり、興奮状態で見境がなくなっている生徒たちは、 それまでの鬱憤を晴らすかのように、騎馬戦などは流血沙汰だ。 そしてその日の放課後は、一騎への決闘の申し込みも増える。 ずば抜けて高い運動神経を誇る一騎は、 体育祭当日はいくつもの競技を掛け持ちさせられるのだが、 これは一騎本人の意志に関わらず、チームの戦略的判断による決定事項だ。 その後に手合わせをするのは正直つらい。 早く家に帰って寝かせてほしいと思いながら相手をし、 それでも一度も負けることがなかったのだから、化け物と呼ばれるはずである。 去年の有様を振り返り、今年もそうなるのかを思うとげっそりした。

「そういうことってよくある。 僕も剣司や咲良にノート見せてって頼むんだけど、誰も取ってないんだよね……」

衛がぼそっと零す。 一騎も手先は器用だったが、漫画が大好きで、 自ら絵を描くことも好きな衛は、やはり一味違った。 同じように塗っているように見えるのに、筋が入らないし、色ムラもできない。 段ボールに直接色を落とすと発色が悪いので、 模造紙を一旦上に貼ってから塗った方がいいと、提案したのも彼だった。 どうやったら、あんなふうに塗れるのだろう。

「こういうときでもノート取ってるのって、 皆城君と春日井君くらいしかいないんじゃないかな」
「でも今日の総士は結構眠たそうだった。 ぼーっとして、頭がこっくりこっくり揺れてたもん」
「そういうの、滅多に見ないからつい笑っちゃうよね。 眠たいんなら寝ちゃえばいいのに、眉間にすっごい皺寄せてるの!」
「うん、あそこまで我慢するくらいなら、寝ちゃえばいいのにね」

総士とはあの事件以来、真正面から顔を合わせられない。 大抵一騎が数秒持たずに、目を逸らしてしまうのが常だった。 だから後ろから総士の体が不安定に揺れているのは見えても、 正面から総士の眉間に寄る皺を確認したことはない。 鋭く相手を射抜くような眼光を受け止める勇気なんて、今の一騎にはなかった。

「遠見ー! 甲洋が来たから練習始めるよ!」
「うん、わかったー! 今行く」

真矢が体育館の向こうで手を振る咲良に、大声で返した。

「じゃあ、私行ってくるね」
「頑張れよ」
「うん」

すっくと立ち上がって、駆けて行く。 様々な学年の練習の声が入り混じる横で、 二人は真矢が来る前と変わりなく、作業を続けていた。 秋は一日一日が短い。 どれも無駄になんてできなかった。 だから本当に日が落ちて帰る直前になるまで、明日授業で当たる予定の英語に使う辞書を、 机の中に忘れてしまっているなんて、思いもしなかったのだ。





太陽は端っこの部分だけを残して、 かすかな煌きを投げかけて、境界へと沈んでいく。 島の高台にある学校からは、海と空の境目へ消えて行く、太陽の断末魔がよく見えた。

暗い廊下に、一年生の教室から伸びる明かり。 教室の中から漏れてくる笑い声は、 闇に沈んでいく廊下を歩く自分とは、全く関係なく存在していた。 こういう光景はどこかで見たことがある。

暗く冷たい海を泳ぎ続ける。 時々見るのだ、そういう夢を。
明かりに惹かれて岸辺に辿り着いても、どこにも自分の居場所はない。 友達、恋人、家族――どの輪にも混ざれずに、 またすごすごと海へ引き返していく。 今目にしているそれは、夢の光景に酷く類似していた。 けれど、絶望感や疎外感はない。 ここは学校で、自分はさっきまで衛たちと一緒にいて、 九月の空気は海のそれよりも格段に暖かかった。 泳ぎ着かれて、手足がかじかんで痺れて、 けれどどこにも辿り着けずに溺れていくことなど、絶対にありはしない。 それがわかっているだけでも、ずいぶんと安心だった。

一年の教室の前を横切り、自分たちの教室へと辿り着く。 電気はすでに落ちていた。 体育館にいた自分たちもとっくに解散してしまったし、それも当然かと思う。 廊下側の端から二列目、前から三番目が一騎の席だ。 その場所に目を遣ってから、 教室の中にいるのが自分だけではなかったことに気付く。

一騎の席の二つ前。 端から二列目、一番前の席――、そうそこは皆城総士の席だった。 一騎の動きが止まる。 呼吸の音、身じろぎ一つで、場が崩れてしまうかのような錯覚を受ける。 心臓が早鐘のようだった。 目が合ったらその瞬間に、きっと自分は死んでしまっていただろう。 すぐさま逃げ出したいという気持ちと、 一度彼を置いて逃げてしまったという罪悪感が同居する。 だからもう、自分は彼の前から逃げられない。 意を決して、そっと近づいていく。

彼は机の上に臥せって、眠っていた。
身体の下に広げられたプリント類から、転寝であることがわかる。 彼は通常、こういう無防備な姿を人前に晒すことはしない。 よく見えない左目のことすら、気遣われるのが嫌な人間なのだ。

一騎は震えそうになる右手を叱咤しながら、総士の顔にかかる髪を払いのけた。 左目に走る一筋の傷跡。 そっと触れると、かすかに肉が盛り上がっているのがわかる。 寡黙ではあったが、健康的で多少危険な場所でも平気で探検に行っていた一騎には、 あちこちに小さい頃に付けた傷がまだ残っていた。 あんなふうに一生、もう消えることはないのだろうか。 総士と正面から目を合わせることを避けてきた一騎が、 この傷をこんな至近距離から確認したのは、今日が初めてだった。

――あなたはそこにいますか。

頭をぐるぐると、そんなフレーズが巡る。 大事なことなのに、思い出せない。 幼い総士の笑顔。 木の枝を振り上げて、抉った肉の感触だけが妙に鮮やかだった。 抑えていた手の震えが蘇ってくる。

誰も責めないから、総士が責めないから、 「どうかしたの」と問う真矢に、自分は全てを吐き出して懺悔した。 彼女は「一騎君は何も悪くないよ」と言ったけれど、子供同士の遊びのうちに起きた事故だとは、 当事者である一騎自身、どうしても思えなかった。 ちゃんばらごっこならいくらでもしたが、 穏やかに微笑む総士に向けて一方的に凶器をかざすなど、正気の沙汰ではない。 自分は知らず知らずのうちに、彼を憎んでいたのだろうか。 そして都合のいいように、その事実を忘れ去ってしまったのだろうか。

――あなたはそこにいますか。

ずっと昔、総士を傷つけるよりも昔に、 ラジオから同じ台詞を投げかけられたことがある。 修理したラジオが拾った音、無機質な、それでいて歌うような声だった。 あの日、逃げて忘れてしまったから、総士を傷つけた自分はここにはいない。 逃げずにいれば、何か変わっていたのだろうか。 総士は自分の忘れたその真実を、憶えているのかもしれない。

自分の手のひらを、ただ呆然と見つめていたが、 眠っている総士が目を覚まし、今にもそれを語りだすのではないかと思うと、急に恐ろしくなった。 自分の机から辞書を取り出し、教室から駆け出す。 追い立てられるように、急き立てられるように、一騎は出口を求めて走った。

「一騎!?」
「……っ、甲洋?」

階段を上がってすぐの曲がり角から出てきた甲洋と、思わずぶつかりそうになる。

「どうしたんだ? そんなに急いで」
「明日当たってたのに辞書忘れてたこと、帰り際になって思い出したんだ」

言い訳の内容と一騎の様子がいまいち一致しないことに、 甲洋は気付いていたようだが、突っ込んで訊いてきたりはしなかった。

「みんなもう帰ったあとだった?」
「……いや、総士が……、寝てたみたいだった」

彼の名前を載せるだけで、舌が痺れるようだった。

「やっぱり、今日は疲れてたみたいだからね。 仕事終わってないんだったら、また手伝っていこうと思ってたんだけど、 起こしてさっさと帰った方がいいみたいだ」
「そっか、甲洋もあまり無理するなよ」
「わかってる。助けに行って逆に溺れてたら世話ないからね。ほどほどにするよ」

甲洋の背中を見送る。 下駄箱から外に出て空を見上げると、曇りでもないのに月の姿が見えない。 暗い校庭を一気に駆け抜ける。 早くこの場所からいなくなりたい。 その思いに急かされるように、家へ急ぐ。 心臓が焼きつきそうだった。





「総士、起きて」

甲洋が総士の肩を揺らす。
生徒会室だと職員室に近いため、余計な仕事を押し付けられる可能性が高いと、 総士は自分の処理しなければならないものだけ持って、教室に避難してきていた。 というよりも、おせっかいな生徒会長が総士の様子を見るに見かねて、 生徒会室から追い出したといった方が正しい。 甲洋は総士の仕事を手伝ってから、放課後の練習に参加したわけだが、 教室で活動していた展示班の中には、 解散時になっても総士を起こすだけの強者はいなかったようだ。

「甲洋か……、僕たちだけ? 一体今何時なんだ?」
「七時近いかな。……さっきまで一騎もいたけど、もう帰ったよ」
「……そうか」
「僕たちも、もう帰ろう」

一騎が走った校庭を、総士は甲洋と並びながら歩き、小さく星が瞬くだけの空を見上げた。 気象情報を思い出す。 月齢はゼロ、今夜は新月だった。

満ち欠けを何度も周期的に繰り返す月は、その現象自体にもはや何の意味もない。 それなのに今日がゼロで、始まりなのだ。 新しく生まれて満ちていく月。 確かに存在するのに、その姿は空のどこにも見えなかった。





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一騎が出た。
でも今まで散々書いてきて、初接触が寝てるときってどうなのよ……。
一騎は総士に怪我させたときのことを、完全に忘れているわけではありません。
ただフェストゥムのことを知らない一騎にとって、
総士の手から結晶が生えてきたなんて非現実的なことは、受け入れられなかったようです。
錯乱した状態だったので、見間違いかもとか、夢だったのかもとか。
彼を傷つけた原因が曖昧なので、怖くて仕方がないんですね……。