どうかこれ以上触らないで
ファフナーの手は自分の手、ファフナーの目は自分の目だ。
皆城総士という卑小な存在を捨て去り、ファフナーと一体化する。
爬虫類をモデルとしたファフナーの視界は本来三六〇度あるが、
自分のそれはどう見積もっても正面から右側にかけて一二〇度ほどしかない。
身体も重かった。
これでどうやって動けというのだろう。
思わずコクピットブロックの中でうずくまる。
「皆城君、今日はここまでにしましょう」
「いえ、まだやれます」
「……皆城君、ノートゥングモデルはまだ、誰にとっても未知の機体なの。
調べて改良していかなければならない点も多いわ」
ノートゥングモデルと呼ばれるファフナーは全十二機、 得意不得意を補い合い、チームで動くことを前提として作られている。 だが起動しているのは一号機と二号機だけで、その他は骨格さえ組み上がっていない。 総士が乗るのがアイン、果林がツヴァイ。 彼女はすでに、ファフナーとの一体化を成功させていた。 羽佐間容子は総士を無能だとは言わない。 彼らの訓練に最初から付き合っている彼女には、二人の間にできつつある、 実力の開きに気付いているだろうに、そのことには触れずただ休息を勧めた。
「わかりました……」
ニーベルングから指を引き抜く。
ここのところ搭乗訓練ばかり行っているから、指の付け根には鬱血の跡ができてしまっていた。
シュミレーションでの結果はそれほど悪くない。
重力抵抗にも慣れたし、武器の命中率も果林よりは上だった。
それでも現物に乗ると上手くいかなくなる。
視界を意識するせいで、最近目の疲れも酷く、眼球の奥が痛んだ。
手のひらを押し当てると、長く伸ばした前髪の下、他の部分とは違うざらりとした感触がある。
皮膚が一度裂けて合わさった古傷だ。
今は痛みもしないその傷。
ファフナーが受胎する卵の中、総士は苛立たしげに顔を歪めた。
「総士君はやっぱりダメだったのか?」
「ええ……」
同じブルク勤務の小楯保の問いかけに、 機体開発担当で、二人の訓練にずっと付き合ってきた容子の声は冴えない。
「機体との相性が悪いんじゃないのか?
変性意識について大分わかってきたとはいえ、
機体が少ない今じゃ、合ったものに乗せてやることも出来ないしな……」
「変性意識の問題もそうですが、
皆城君は違和感の一つとして、視界を真っ先に挙げています。
失明はしていませんが、ずっと不便な状態を強いられてきたために、
それが自分だと、そういう先入観があるのかもしれません」
幼い頃に皆城総士が怪我をし、左目を損傷したのは有名な話だ。 小さな島だから、それこそ大人から子供までみんな知っている。 それがなぜ、どういう経緯でついたのかということに関しては、 本人が口をつぐんでいるために、詳しいことはわかっていない。 転んだのだと本人は言い張っているが、 擦り剥いたのではなく、鋭いもので抉ったようなあの跡は、 どう贔屓目に見ても、それが原因だとは思えなかった。
今日の総士の訓練はこれで終わりだが、 一体率を上げるための、ファフナーに関する知識の習得も怠るわけにはいかない。 ファフナーは操縦するのではない。 ファフナーになる。 あくまで肉体的、感覚的部分が大きい。 原理を知ることによって、それが埋められるとも思えないが、 ファフナーをより身近に感じることで、よい結果が得られるかもしれないと信じて、 総士はそれを続けていた。 立ち止まるわけにはいかないのだ。
「終わったの?」
規定時間よりもやや早い。
彼女はスーツに着替え、自分の番が来るのを待っていたようだった。
「ああ……」
非常事態宣言が出されていないため、第二種任務に従事しているものも多い。 施設の稼働率が悪いため、データ取りも順番待ちだ。 たいてい機体番号順に行っていくので、 総士のあとが果林ということになる。 まだ総士は機体との一体化を果たしていない。 そんな状態で彼女と顔を合わせるのは、 自分の不甲斐なさを見せ付けられるような気がして、苦痛だった。
「皆城君の目って、最初から見えなかったわけじゃないんでしょう? 何で上手くいかないんだろうね……」
先天的なものならば、見える状態を想像できないということも考えられるが、 総士の場合それは当てはまらない。
「私の手、見える?」
「バカにしているのか?」
総士の目の前で、果林は手を振ってみせた。 近すぎる距離、視界の外側から彼女の指先が触れ、 抉れた傷を塞ぐように、少し赤みを帯びて盛り上がった皮膚を、すっと撫で上げていく。 気がついたら総士はそれを、叩き落としていた。
「この傷に触るな!」
総士の剣幕に果林がたじろぐ。 その目は、痛みよりも驚きで見開かれていた。 けれど謝る気も起きない。
「……僕はこれを、他の誰かと共有する気はない」
「……ごめん」
「訓練があるんだろう」
そう促すと、唇だけ持ち上げるやり方で果林が笑った。
「うん……、行ってくるね」
目は相変わらず強張ったままだった。 それでも真っ直ぐ歩いていく。 ファフナーに乗ることができていたら、こんな引け目は感じずに済んだのだろうか。 行き場のない感情を持て余したまま、もう一度だけ傷跡に触れた。
前回と果林のしゃべり方が若干違うのは、わざとです。
「わ」とか「よ」とかいう語尾を多用するときは、
演技をして、無理に快活に見せてるとき。
果林は島の秘密を知ってるっていうそれを、総士と共有したいんだけど、
ファフナーに上手く乗れない総士は、
果林のその馴れ馴れしさが鬱陶しいくて仕方がない、そんな話です。