どこにもいない彼と対話する方法 2





「起立、気を付け、礼!」

学級委員の掛け声でホームルームが終わると、 みな足早に教室を飛び出していった。
放課後の貴重な時間は短い。 娯楽も何もない、小さな島の退屈な日常。 一年前はそんな毎日に閉塞感を感じていたはずなのに、 今はそんな日常の一分一秒を惜しんで生きている。 戦いが自分たちをそう変えてしまった。

「一騎君、帰りのことなんだけど……」

人の流れに逆行して、真矢が窓際の一騎のもとへ近づいてくる。
一度同化現象が進んで身体を悪くしてから、 学校の行き帰りはいつも彼女が付き添ってくれていているため、 真矢が自分を迎えに来るのは珍しいことではない。 それでも言いづらそうに途切れた彼女の言葉に、一騎はふと思い出したように呟いた。

「確か遠見は今日からバイトだっけ?」
「そう。だから代わりにカノンが、 生徒会の仕事が終わったあとでよければ送ろうかって言ってくれてるんだけど、どうする?」

真矢は高校生活が始まるとともに喫茶『楽園』でのバイトを決めていて、今日がその初日だった。 剣司とカノンも、できたばかりの高校を少しでもよくしていこうと、生徒会活動に精を出している。 そうやって平和になった日常を満喫する仲間たちに心配されるのは、 一騎にとって気の引けることだった。

「別に俺のことは気にしなくてもいいのに」
「一騎君はもっと自分のことを気にした方がいいと思うよ」

ろくに目の見えない者が、供もつけずに出歩くのは危ない。
一騎も他人事であれば素直にそう思ったし、彼女の言い分は全くもって正しかった。 しかし自分のこととなると話は別である。 持ち前の運動神経と勘の良さで失った視力をカバーしている一騎は、 真矢の心配を過保護だと感じていたが、それを言って彼女に勝てたためしがなかった。

「ありがとう。だけどごめん。今日はアルヴィスに寄って帰るから」

だから帰りの付き添いはいらないのだと、暗にそう告げた。 一騎は同化現象の治療で、パイロットでなくなった今でも定期的にアルヴィスに通っている。 それを知っているからだろう。 彼女もアルヴィスへ行く理由について、深く追及してはこなかった。

「そっか。なら帰りはおじさんに送ってもらってね」

念を押す真矢に、わかったと苦笑しながら頷いた。

「じゃあ、一騎君。また明日」

手を振りながら教室を出ていく真矢を見送って、 一騎は無人の教室で席を立った。
教壇脇を抜けて電灯のスイッチを落とすと、教室が一瞬で薄暗くなる。 どこからか運動部の掛け声や生徒たちの話声はするのに、 それら日常の全てが壁一枚隔てたように遠かった。 輪郭のぼやけた視界と同じように、 日常はおぼろげで、他の仲間たちのように平和な日々に適合できない。 それはずっと――、北極から戻ってから一騎が感じている感覚でもあった。
ふっと目をそらす。 もう行かなくてはならない。 戸口をくぐる直前に、一騎は一番近くにあった席に目を遣った。 廊下側の最前列。 そこは中学のとき皆城総士が座っていた席だった。





――なぁ、総士。知ってるか。高校にはお前の席がないんだ。

アルヴィスの格納庫でこれから搭乗するマークザインを見上げながら、一騎は心の中で呟いた。
総士だけではない。 甲洋も衛も翔子も――、中学では卒業までそのままにされていたいなくなったメンバーの席が、 新設された高校には初めから用意されていなかった。 それは一騎にとって衝撃だった。 総士は必ず戻ってくると約束した。 なら、総士の席がないのはおかしいじゃないか!  誰かにぶつけたことはなかったけれど、 その疑問はずっと一騎の中で燻り続けていた。

――お前はきっと気にも留めないだろうけど……、でも俺は嫌だったんだ。全てが総士を置いて変わっていってしまうことが。

生きている者の席はある。
咲良は同化現象の後遺症のためあまり学校に通えていないが、 それでも教室には席があり、いつ彼女が来てもいいようにと剣司たちは生徒会に書記のポジションまで用意していた。 それが生きている者と、死んでいる者の差だ。 そして誰も総士のための居場所を用意してはやらなかった。 皆城の家は島に初めてフェストゥムが訪れた日から荒れ放題で、誰も手入れなどしていない。 フェストゥムとの戦闘は、総士が乗るジークフリードシステムがなくても成立するようになってしまったため、 アルヴィス内にも総士の居場所はなくなってしまった。 全てが総士を置き去りにして変わっていってしまう。

――だから俺だけは変わっちゃいけないって、お前のこと信じてなきゃいけないって、そう思ったんだ。

変わり続ける現実の中、 ただ一人変わらないで待つことが、自分が総士にしてやれる唯一のことだと思っていた。 だれどそれ以外にも、自分が総士にしてやれることがあるのだろうか。 ただ待つ以外の何かが。

――総士。俺、変わってもいいのかな。

ザインに乗るということは、変わるということだ。 変わることを受け入れられなければ、ザインに乗ることはできない。
一騎は口を開けて待つニーベルングに指を突っ込んだ。 神経が接続される痛みに呻く。 瞬間、自分と何かが混ざるのがわかった。 まだ個体であることを保っているもの、溶けて消えかかっているもの、もう形を保っていない何か。 それらが一気に押し寄せて、一騎の意識はその濁流に流されていった。





意識を失っていた時間が長いか短いか、一騎にはわからなかった。
ただ気づけばそこに闇があった。 それ以外には何もない世界。

「フェストゥムの無……」

全てのものが生まれ、還りつく先。争いもなく、みんなが一つであれる場所。
どこにもいなかった幼い総士が、一騎とともに帰りたがった場所だった。 今ザインの中で一騎が見ているこの闇は、 北極で総士と二人覗いた、あの暖かい暗闇へも続いているのだろうか。 彼らの祝福を受けながらも、 一騎と総士は甲洋の助けを借りてあの場所から抜け出した。 それだけでもう、助かるものだと思っていた。 けれど同化が進み過ぎた総士に帰るべき肉体はすでになく、 彼はもう一度存在を作り直すと、 あの暗闇へ一人戻っていったのだ。 そして今、暗闇と一騎だけがここに存在していた。

「お前はまだそこにいるのか!?」

応えはなく、音は暗闇の中に失せて消えた。
なぜ誰もいないのに、一騎だけが存在しているのか。 油断すれば自分もまた無へと還りそうになるその欲求に、 なぜ抗い続けているのか。 一騎自身にもわからなかった。 モルドヴァで、一騎が存在と無の狭間で揺れていたときに存在することを選べたのは、 自分でも無でもない皆城総士という存在を意識したからだった。 総士が存在するから一騎が存在する。 総士ともう一度会話するために、一騎は存在を選び、ザインが生まれた。 けれどもう、総士はどこにもいない。

「総士! お前はまだそこに――」

ずぶずぶと足元から無へ飲み込まれていく。

「――っ、俺はまだ、ここにいる!」

傾いた身体で宙を見上げ、一騎は叫んだ。 抗うから苦しいのに、なぜ存在することを止められないのか。 意識が引き裂かれていく苦痛の中、 一騎は全てを律してザインという形を作ることを意識した。 総士に再び出会う自分を作る。
自分だけではない。 この暗闇の先で総士もまた、 自分という存在を作り出すために一人戦っているというのなら、耐えられる気がした。 笑みが漏れる。 自分たちはもう、一つの存在ではない。 だから暗闇から出て生まれてくるのだ。 一騎が一騎として、総士が総士として出会うために、痛みに耐えて産声を上げる。 光が、見えた。

「――先に行って待ってる」

暗闇の中にぽつりと言葉を落とし、近づいてくる光の渦に一騎は飲まれていった。





山羊の目が開く。
自分の視力を失ってから初めて見る、クリアな視界だった。 生まれたばかりの赤ん坊が初めて肺に流れ込む空気に咽るように、 格納庫全体を照らす強烈なライトに目が眩む。 その痛みに一騎は、自分があの暗闇から生まれてきたことを知覚した。

「一騎君、起動成功よ」

マークザインの足元で千鶴が涙を浮かべていた。
総士と会うときにどんな自分でいたいのか。 答えられなかった千鶴からの問いに、 総士と同じ痛みを背負える自分でいたいと、今の一騎ならそう返すだろう。 かつてモルドヴァで存在を作り上げた一騎が、総士のいる島を目指したように、 総士が一騎のもとへ帰ってくるというのなら、総士より早く生まれてここで待つ。 そのために何度変わり続けても、存在することを選ぶ。 それが一騎の出した答えだった。





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何度も書き直してこれというのが悲しいですが、一応完結です。
私の勝手な言い分ですが、
総士が存在を取り戻すために一人頑張っているときに、
何もしない一騎というのを見たくなかったので、
(だからといって何かしてほしいわけでもないので、
ただ総士の苦しみを一騎にも理解してほしいというのが正解に近い)
こんな話になりました。