繋ぐもの
――私まだファフナーに乗れますか?
治療室に運ばれていく最中に聞いた、果林の言葉が耳から離れない。
ファフナー乗りが辿る同化現象という末路を目の当たりにしたことも、
そんな彼女に危うく同化されかかったことも、それらは僚の心に影を落としはしなかった。
それなのに彼女がうわごとのように繰り返し零した言葉だけは、
数日経った今でも忘れられないのだ。
恐らく僚は彼女と違い、同化現象で命を落とすことはないだろう。
生まれてこの方自分を蝕み続ける痛みの原因、
本来なら腎臓が収まっているであろうあたりに手を這わせてみる。
寝起きの肌は驚くほど冷たかった。
この身体は本当に生命活動を行っているのだろうかと思う。
体温が上がらないとろくに動くことさえできないので、じっとして熱を蓄える。
貴重な朝の時間はこれで潰れてしまうのが常だった。
おまけにそういった時間は必ずといっていいほど、ろくなことを考えないから性質が悪い。
二度寝しそうになる意識を保っていると、
カタカタと玄関のガラスが揺れる音がした。
風ではない、人為的な物音が睡眠でも思考でもない方向へ意識を引っ張り上げていく。
「プク、しーっ。静かに」
愛犬プクの鳴き声と、裕未の抑えた声が聞こえた。
スリッパが廊下の上を一定のリズムでもって進んでくる。
「……僚、まだ寝てるの?」
母が亡くなってから、万が一のときのためにと合鍵を預けた幼馴染は、
最近僚の返事を待つことなく上がりこんでくる。
文化祭の前後から僚が体調を崩してきているのもあるが、
半分は物心ついた頃から生命維持装置に頼らないと生活できなかった裕未の父親が、
東京へ療養に行ってしまったのが原因だった。
実際のところ、彼は東京へ行ったわけではなくL計画に参加しているのだが、
まだメモリージングが活性化していない状態の裕未には真実を明かせないため、表向きはそうなっていた。
母親のいない生駒家では、家事に始まり父親の介護でさえも裕未の仕事だった。
僚が心配だからと付き合いで副会長を引き受けてくれていたが、
そんな余裕があるような生活ではなかったのである。
それが父親が東京に行ってしまって以来、ぽっかりと穴が開いたようにすることがない。
そのため今まで父親に向かっていたものが、僚の方に来ているのだ。
「起きてはいる」
「これから朝食の用意をするけど、学校には行けそう?」
「たぶん無理」
「そう……、とりあえず身支度だけはしてきてね」
何とか身体を起こして時計を確認すると、七時半だった。
「よっこらせ……っと」
服は眠る前に一式、枕もとに揃えてある。
のろのろと着替えてダイニングまで移動すると、すでに味噌汁が出来上がっていた。
席に着くとほうれん草と卵のオムレツがフライパンからお皿に移され、
はいどうぞと差し出された。
「うん……、いただきます」
僚も母親に先立たれて以降は一人暮らしなので、家事はお手の物であるが、
なにぶん最近は体調に融通が利かない。
それでも夕方には出かけなければならないため、一日中臥せっているわけにもいかないのだ。
十一月にLボートが帰ってくるのに備え、ノートゥングモデルの開発をあらかた終えてしまわなければならない。
なのに起動実験や部分テストでパイロットがすでに同化現象を起こしてしまっているのだから、
上層部の慌てぶりは相当なものだったという。
遠見医師と総士の反対にも拘らず、僚のアルヴィス勤務時間が増やされたそうで、
それを僚に告げるときの総士の顔といったら、
こいつはこんなにわかりやすくて戦闘指揮官など勤まるのだろうかと思ったほどだ。
相当嫌な思いをしたに違いない。
今日の予定を頭に思い浮かべつつ、箸を口に運んでいると、裕未がパタパタと戻ってきた。
「洗濯機を回しておいたから、忘れずに干しておいて」
「……裕未って本当、デリカシーないよな」
思春期の男の子の誰が、好きな女の子に下着を洗ってほしいと思うだろうか。
「スイッチを入れただけでその言い草はないじゃない。
前に仕分けしないでって言われたからちゃんとその通りにしたのに!」
「はいはい」
裕未はしっかりしているが、その辺はいくら言っても通じないとわかっている。 僚は適当に受け流しておいた。
「あ、プクのご飯」
「俺がやっておくから」
「お願い。じゃあ学校に行ってくるから」
「いってらっしゃい」
そうして裕未は慌しく去っていったのだった。
玄関のたたきに腰を下ろし、 潰れかかったかかとの部分を指で立ち上げて、スニーカーに足を押し込める。
「プク、少し早いけど家出ようか」
「ワン!」
体調のいい日であれば、昼間商店街へ買いだしに行くついでにプクの散歩を済ませてしまい、
アルヴィスへは連れて行かない。
プクを連れて行けば果林が喜ぶのだが、
島の機密であるアルヴィスに目立つ存在を連れたまま出入りすることにはいまだ躊躇いがあった。
しかし最近は体調が悪い日が多く、
道中何かあったときの付き添いと散歩を兼ねて、プクには共にアルヴィスへ向かってもらうことにしていた。
みんなが学校で勉強している時間に、自分だけがここにいて、みんなと違う場所へ向かおうとしている。
少し前までは自分も通っていたのに、あの世界が酷く遠いと感じるのはなぜだろう。
アルヴィスの存在を知ってからも、卒業することなく通っていたのに今更だと思う。
少し前までの自分という型に中身が収まらず、膨張して溢れている。
そんな不思議な感覚だった。
それでも歩みは止めない。
ゆっくりと足を運んでいく僚の傍らを、プクが同じペースで進んでいく。
生まれた頃から共に時を過ごしてきた相棒は、もう老年の域に差しかかっていて、
僚を急かすこともなかった。
一歩一歩確かめるように踏み出し、疲れたと感じたら道端に座り込んで休む。
普通の人なら二十分あれば充分な道のりに、僚は二時間近くを費やしていた。
痛みを訴える脇腹に手を伸ばす。 ポケットの中にある痛み止めは飲めない。 ファフナーに乗る日はいつもそうだった。 ファフナーに乗る上で痛みは重要な要素だ。 痛みによって機体の損傷を認識するのだから、不用意に痛み止めを服用する訳にもいかない。 だからこうして、時間に十分な余裕を見て家を出るのだ。
冷たい風にもともと体温が高くない僚は、暖を取るためにプクの首筋に腕を絡めて抱きしめた。 まだ幼かった頃のプクの、 リードをしていても逃げていってしまいそうな感覚を、手のひらはまだ記憶しているのに、 それはもう遠い日の出来事だった。 時間があの日のプクのように、手のひらをすり抜けていく。
――私まだファフナーに乗れますか?
自分は一体いつまで生きて、ファフナーに乗り続けられるだろう。
今回が祐未さんの初登場ですね。
ここではまだ大きく取り上げてませんが、100題の中の祐未さんと将陵先輩のあり方には結構ずれがあって、
それが追々問題になってくるという、その序章でした。